タイトル
思い出となんかちがうぞ

『ディシディアファイナルファンタジーNT』が発売となりました。SNS向けのキャンペーンとして「#FF旅」というプロモーションをやっており、その導入動画が過去作品を一文で紹介されています。が、その紹介がヒドイ。コピーライターとしては3流の仕事。そもそも作品の本質を何もわかっていない人が作っているのが明白でゲンナリする…といった内容の記事です。




ブログ代表
こんばんわ、レトロゲームレイダース/ジョーンズ博士です。

『ディシディアファイナルファンタジーNT』公式ホームページにある1コーナーの過去作品の説明が、過去作品をやっていないヤツが作ったっぽい&その作品で言うべきはそこじゃねぇ感満載で、古参のFFファンが怒りのリミットブレイク発動状態です。

本当はこういう揚げ足をとるような企画はやりたくないのですが、ファンの懐かしい気持ちを刺激する企画で気持ちをしぼませるという、コンテンツマーケティングとしてちょっとヤバい域ですので、シリーズの作品説明を兼ねて、取り上げさせていただきます。



FINAL FANTASY I
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01

前半は、まあ大体OK。FF1は時間のメビウスの輪にとらわれて、永遠に戦い続けることになった光の戦士と<混沌>の物語なので、「現れた」という言葉を使っている点は良い。が、後半がダメ。「世界に平和をとり戻す」というのは間違っていないが、作品のキーである4つのクリスタルについてふれるべきだと思います。

「旅」をテーマにしていることとファンの思い出を掘り起こすことがキャンペーンの目的ならば、スタート地点の地名を出すのはいいアイデア。しかし、FF1の旅の一番のポイントは2000年の時を飛び越えるところにあると私は思うのですが。


FINAL FANTASY II
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02

素晴らしい、すべて間違っている。皇帝は最初からパンデモニウムにいない。山深いパラメキアから魔物の力を借りて世界征服に乗り出したのが正解。ストーリーの中盤でフリオニールたちに敗れて一度死ぬものの、地獄にいる悪魔の力で甦り、地獄の眷属を率いて地上に復活したというのが正解。

そもそも主人公たちは皇帝を討つ旅をしていない。結果的に、戦局の変化から皇帝を討つしかなくなったというのが正しいと思います。ていうか、そもそもこのキャッチコピー、ダサイ。


FINAL FANTASY III
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03

浮遊大陸があるのは世界の片隅じゃないし。浮遊大陸から飛び立つことは作品の特徴ではあるけれども、作品のテーマはそこではないと思います。村の悪ガキ4人衆だった主人公たちが、クリスタルからの啓示を受けて、故郷を飛び出し、いろいろな人たちと出会い、強大な闇の眷属たちと対峙して、光の戦士に成長していくのが『FFIII』だと思うんですよ。


FINAL FANTASY IV
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04

セシルとゴルベーザはたしかに兄弟同士で戦い合うわけですが、本作のテーマは光と闇、愛と憎だと思います。受け入れるチカラと拒絶するチカラ。だから対峙しているのは、セシルとゼロスという構図の方が作品の解釈としては正しいのではないでしょうか。ゴルベーザの存在感は大きいのですが、彼も、カインも、自分の弱さに負けた犠牲者でもあるわけで。


FINAL FANTASY V
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05

これも違和感があるんですよね。たしかに最終的にはエクスデスは「無」の力を求めるわけですが、作品の核にあるのは「存在理由」みたいなところが『FFV』だと思うんですよ。ファリスは育った環境か血筋かで本当の自分について悩みますし、バッツも旅の中で明かされる父親の正体と使命と思いを知って自分の進むべき道を決める。エクスデスに至っては世界の法則から外れた生まれかたをしたがために、すべての生に対して憎悪のような感情を抱いており、力を手に入れることで自らの存在を正当化したい節がある。しかし、最後に手に入れた力が「無」というのは必然というか皮肉ですが。


FINAL FANTASY VI
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06

そもそも『FFVI』は群像劇であって、誰かが主人公の物語ではなく、誰でも主人公の物語でもあるという作品。ティナにフォーカスが当たっているのは、ディシディアファイナルファンタジーNTならば分かりますが、作品紹介としては間違っているのでは。それに、ティナは愛に目覚めたから破壊神と対峙しようとしたわけではなく、「人を愛することができる」と知ったことで、人間か幻獣か分からない自分に自信が持てたというところが重要なのではあるまいか。それに、ティナが特別な血筋だから対抗できるのではなく、非力な存在である人間が、それぞれの長所を活かして手を取り合うことで、巨大な敵と渡り合うというところが『FFVI』のいいところなんじゃないかな。


FINAL FANTASY VII
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07

事実だけをいえば、これで合っているんだけど。なぜ、クラウドたちは旅をつづけたのか。その理由は、星の未来をかけたなんて崇高なものではなかったと思います。1人ひとりが実に人間的な理由で戦う意味を見つけて戦いに身を投じたというのが『FFVII』という物語ではないでしょうか。セフィロスはたしかに英雄ですが、彼にも選択肢はあったわけで、最終的に母親というべきJENOVAに支配される道を選んだところに人間らしさもあり。最終的に人類の敵になってしまうんだけど、弱さと強さを正反対に持つクラウドとの関係性がまったく匂わないところが、むむむ。


FINAL FANTASY VIII
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08

「愛する」と「未来」という言葉があまりにも軽い。


FINAL FANTASY IX
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09

後半は上手く言い表せていると思います。ただし、前半は世界設定の説明をしているだけ。作品のテーマには「生きる」というものがあります。これは個人が生き延びることではなく、今、ここに自分が存在しているということは、ずっと続いてきた命とドラマの連鎖によってなしえた奇跡。自分で終わらせることもできるけど、先に進めることもできる。一人ではできないから、手を取り合う必要がある。助け合う必要がある。その重さと大切さを知った旅立ったからこそ、その連鎖を断絶しようとする敵との戦いが熱い。それが『FFIX』だと思うんだけどなぁ。


FINAL FANTASY X
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『FFX』って、真の意味でのシリーズ原点回帰だと私は思っていて。『FFI』って実は戦いの輪廻にとらわれて永遠に抜け出せない光の戦士の話で。『FFX』も世界の法則としては同じことが必ずくり返され続けるというところは同じ。でも、たった1つのイレギュラーによってその輪廻が破壊される話なんだよね。そのイレギュラーが主人公ティーダなわけですが。世間知らずの口だけで「ユウナを助けたい」と言っているガキが本当にユウナを助けられる唯一の存在だったという展開が熱いわけで。まあ、そう考えると、これでもいいのかなぁ。


FINAL FANTASY XI
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なんでジラートやねん。


FINAL FANTASY XII
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なんかピンと来ないよね。『FFXII』の物語って、「生きかた」みたいなところがテーマ性として感じられるわけ。何に縛られているか。何を心の支えにしているか。だから、ジャッジみたいな存在と空賊という存在が、対比するかのように描かれていると私は思っています。じゃあ、どういうフレーズにすればいいかというと悩みどころではあるのですが、このように大きな話ではない気がするんですよね。


FINAL FANTASY XIII
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13

開始早々に挫折した作品なので、コメントを控えさせていただきます。


FINAL FANTASY XIV
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14

『FFXI』のときと同様に、一部の話に寄りすぎていませんかね。



・・・と、好き勝手に語らせていただきました。すべての作品をがっつりやり込んでいるわけではないので、文字数にかなり差が出てしまいましたが(笑)、やっぱり違和感があると思うんですよね。いかがでしょうか。


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